千数百年前に創設された柴又八幡神社と島俣塚、葛飾柴又と言えば寅さんでお馴染みの帝釈天が超有名ですね。平日の人出も帝釈天は人混みだらけですが、こちらは誰一人として見かけません。私は奈良県生まれですが、奈良の神社同様の歴史と神聖さが辺りに充満しています。一度、柴又にお出かけの際はちょっとひとよりされてはいかがでしょうか?場所は柴又駅を降りて帝釈天より近いところにあります。金町の方の2つ目の踏切を渡ったところにありますので・・・
柴又八幡神社の由来
◎祭神
誉田別尊(ほんだわけのみこと)=八幡大神
建御名方尊(たけみなかたのみこと)=諏訪大神
◎由緒沿革
今から約千二百五十年前に記された奈良正倉院の御物として、丁重に保存されている養老五年の戸籍帳に、民家四十二戸の集落であった「島俣の里」が、現在の柴又地方であることは、学会に信じられており、又、別項の「古墳と島俣塚」の解説でも裏付けされている通り当神社が初めて鎮祭されたのは、極めて古いことと推察されるが、残念なことに神仏混こう時代の別当時出会った真勝院が度々の火災のため、当社の古記録が凡て消失してしまったのは誠に惜しいことであろ。その罹災年代が徳川時代になってからも宝暦、明和、文化と三回も解っている。只わずかに当神社の改築された都度の棟札、寛永十年秋(本殿)、宝暦三年秋(本殿)、安政十年秋(本殿、拝殿)が保存されているので本社の沿革を知る上に、貴重な資料になっているに過ぎない。おそらく巷間に伝えられている伝説に信を置いて良いと思う。
それは千数百年前 此の地を開発された祖霊の墓前に当地の住民が社を建てて、氏神とし、崇敬の的としているうちにその後武士の勢いが盛んになった頃、鎮守の神として武神の諏訪、八幡の二柱お祀りして信仰を続けて来たものと思われる。明治維新の際、神仏分離の行政の大変革に会い、神社は一般の宗教の圏外におかれて国家管理となり、村社に列して柴又の住者により維持経営が行われて来たが、昭和二十一年、政令に従って宗教法人となり、更に法律の制度に基づき、昭和二十九年三月、新たに現在の「宗教法人八幡神社」が設立されたのである。
尚、当社の重宝三体の神獅子頭は、他に類例を見ない古式豊かなもので古昔から疫病除けの、民間信仰が最も篤く、常に門外不出として秘蔵されているが、毎年例祭日当日はこの神獅子舞が、境内で行われる。大正十三年、国学院大學に於いて、皇典講究所総裁閑院宮載仁親王殿下の、台覧の光栄に浴したことは、全国の当時の知名の士に知られている。
◎古墳と島俣塚
柴又八幡の社殿の下の石棺はふるくからすでに有名であった。内部の構造を残す古墳としては、東京の下町から国府台
の間に広がる広大な地域中、唯一の存在であるのでこのたびの新社殿の造営を機に、調査修復する計画であった。しかし旧社殿を取り壊してみると、江戸時代における数度の社殿工事によって、全く破壊されていることが判明した。其の上、使用されていた石材の状態は、今まで伝えられていたような石棺ではなく、いわゆる竪穴式石室であることをしめしていたのである。また以前から保存されている埴輪円筒と、須恵器の外、今回の発掘の際に石室の旧位置付近では、埴輪円筒や須恵器の破片、直刀、刀子の残缺、朱魂、遺骨などが点々と発見され、かなり有力な豪族の墳墓であることが推定された。このように柴又の地にとって、湯所ある遠い父祖の墳墓を、どのようにして、後生に伝えるかということが、宮司、神社役員一同の深く心をくだいたところであった。屢々の協議の末、破壊された石室を、そのまま保存することは、余り意味がないので、できる限りのものに姿を復元して、旧来通り社殿に保存することにし、別に塚を築いて遺骨を納め、父祖のみたまが再び永遠に鎮まりたまうことになったのである。
石室の復元は、蓋石の巾の平均から、石室の巾を割り出し、また、蓋石を並べた長さから、石室の長さを推定し、深さは奥壁をなす鏡石の高さを基準とした。石材はすべて古墳が築かれた当時の石を、使用したことは勿論である。石室の側壁に使用されていた多数の凹みのある丸石は、非常に特徴的で、すぐ判別できる。旧社殿の基礎に使われていたものや、境内に散布していたものを集めたところ、復原の寸法の石室を築くのに、ほぼ過不足なかったことは、この復原が大きな過りを犯していないことになるであろう。
さて、柴又八幡古墳は、出土遺物や、石室の状態から考えて、千三百年乃至四百年以前の古墳であると推察される。はじめて柴又の地を開拓し、定住して農村生活を営んだ人々の首長の墓であったことに、おそらく間違いはないであろう。著名な養老の戸籍に載せられた大島郷島俣里の人々より更に昔のことである。
なお、遺骨を納めた島俣塚は、上円下方という古墳の形を模したものである。
因にこの復原い関しては、終始、永峰光一先生の監督指導によるものです。
(この記事は神社の関係者より頂いた柴又八幡神社の栞より引用)